読書メモ:Mill's Ambivalence about Duty by David O. Brink①

 2014年のMill on Justiceという論文集に収録されているかなり新しい論文。タイトル通り、ミルのUtilitarianismをメインテキストとして、彼の義務の基礎付けについての著述が(ブリンクのみるところでは)解決不可能なレベルでアンビバレントなのだ、というようなことが述べられている。

 ミル解釈において、根底に矛盾を抱えた過渡期の思想家として彼を理解する伝統派に対して、それまであまり顧みられることのなかったA System of Logicの著述、特にその中で提出されたart of life(生の技芸)の概念を積極的に用いてミルの諸著作を整合的なものとして理解しようとする修正派が60年代ごろから現れ始めた、というのはほとんど常識になっている。この修正派の勢いもひとまず落ち着いて、当該論文の著者ブリンクのようにやはりミルの思想には二重性が潜んでいるのだとする解釈も再び多くなされるようになった、というのがミル研究における21世紀の動向であるように思われる(いうまでもなくこれはド素人でしかない筆者の主観であるが)。

その中でもブリンクのこの論文は正不正の判断と義務の基礎づけにおいて功利原理をいかにして適用するか、というミルの規範理論の屋台骨に存在するアンビバレンスを暴き出そうとする試みであり、重要かつ興味深いものである。

 直接功利主義と間接功利主義、行為功利主義と規則功利主義

 さて、功利原理の適用について、現代の議論では直接功利主義(direct utilitarianism)と間接功利主義(indirect utilitarianism)、行為功利主義(act utilitarianism)と規則功利主義(rule utilitarianism)という区別を用いることが一般的になっている。ミル解釈においても、これらの区別を用いて、解釈者たちはミルの功利主義理論を明確なものにしようと試みてきたわけである。まずは、ブリンクが上記のさまざまな分類に与えた説明をみてみることとしよう。

直接功利主義:道徳的評価の対象となるあらゆるものーたとえば、行為、目的、指針、制度ーは、一般的幸福にもたらす帰結の価値によって、またその程度に従って評価されるべきである。

間接功利主義:道徳的評価の対象となるあらゆるものは、一般幸福にもたらす帰結の価値によってではなく、良い、もしくは最善の判定価値(acceptance value)をもつなにかほかのものーたとえば、規範や目的ーとの一致によって評価されるべきである。

行為功利主義:ある行為は、その行為の一般幸福にもたらす帰結が、行為者にとって可能なあらゆる代替行為とくらべて少なくともおなじだけよいものである限りにおいて、正しい。

規則功利主義:ある行為は、ある規則と一致している限りにおいて、すなわちその規則の一般幸福にもたらす判定価値が、行為者にとって可能なあらゆる代替規則とくらべて少なくとも同じだけよいものであるような規則と一致している限りにおいて、正しい。

 

 

 

 ブリンクによれば、もっとも有名な形態の直接功利主義が行為功利主義であり、もっとも有名な形態の間接功利主義が規則功利主義であるということであって、直接功利主義と行為功利主義、また間接功利主義と規則功利主義が同義ということではない。この点に関しては、とくに日本語の文献では非常に混乱した様々な説明がなされている。たとえば児玉聡氏は自身のホームページで直接功利主義と行為功利主義、間接功利主義と規則功利主義を同じものとして扱った記述をしている。*1筆者の考えのおよぶ範囲では、直接功利主義は論理的必然として行為功利主義をみちびくように思われるが、間接功利主義と規則功利主義のあいだに論理的なつながりはないから、この論点は非常に重要だろう(まさにブリンクが提出する功利主義も非規則功利主義の間接功利主義である)。

 ほかに、直接功利主義は常に一般功利性を気に掛けることを(意思決定プロセスのうちに)求めるが間接功利主義はこれを求めない、というような説明がなされることもある。*2これは、Utilitarianism第二章を多少なりとも読んでいれば当然わかることだが、行為の評価基準であるところの功利原理を意志決定プロセスに介入するものと考える初歩的な誤りに基づいており、論ずるに値しないレベルの誤謬であるように思われる。*3このことを確かめるためにも、続いてブリンクがこの論点について述べていることを見ていこう。

意思決定手続きではなく、行為の評価基準としての功利主義

 そうはいったものの、この論点についてはブリンクが言っていることはほとんどなく、引用がいくつかなされているのみである。ミルはもとよりあらゆる古典的功利主義者が洗練された著述をしているから、わざわざ自分で書くまでもないということなのだろう。筆者もこの考えにまったく同意する。まずはミルから、ブリンクによれば、

ミルが述べていることには、ひとは意思決定にあっては常に注意深く功利原理を用いなければならないと想定することは、「道徳の基準というまさにその意味を取り違え、行為の規則と行為の動機とを混乱することである。なにが我々の義務であり、またどのようなテストによって我々がそれを知ることができるかを告げることは倫理学の仕事である。しかしながら、我々のなすことのすべての動機は義務の感情でなければならないなどと要求する倫理学の体系は存在しない。全く反対で、我々の行為のほとんどはほかの目的からなされるし、また、義務の規則がそれをとがめることがない限り、それで正しく行為しているのである。」

また、ベンサムIntroduction~で功利計算があらゆる場面でおこなわれるべきである、ということを否定しているようだ(引用はなし)。決定的には、シジウィックがMethods of Ethicsで、功利主義は正しい行為の基準を提供するのであって、必ずしも意思決定手続きを提供するのではないということを示して次のように述べている。

最後に、普遍的幸福が究極の基準であるという原理は、普遍的博愛が唯一正しい、または常に最良の行為の動機であるということを示しているのだ、という風に理解されてはいけない。というのも、これまで見てきたように、正しさの基準を与える目的が、常に我々が注意して追求すべきものである、ということには必ずしもならないからである。そしてもし、一般幸福は、ときに人が純粋な普遍的慈善とはちがった動機から行為する場合により十全に達成されるということが経験によって示されるのであれば、これらの他の動機は、功利原理において合理的に好まれる、ということは明らかである。

 要するに、古典的功利主義の時代からずっと、功利主義はあくまでも行為の評価基準なのであって、意思決定手続きではないのだということ。 オースティンの「健全で正統な功利主義者は、 彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければ ならないなどと主張したことも考えたこともない」というキャッチ―な文言がこのことを最もよく直観的に伝えるように思われる。ではミルは意思決定や道徳的推論において、一般功利性ではなくなにを重視したのか、という疑問からミルにおける二次原理の重要性につなぐという構成になっている。

とりあえずここまで。

 

*1:http://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/utilitarianism.html#_=_

*2:たとえば、川名雄一郎氏の「新しい資料,新しい思想?―近年の J. S. ミル研究―*」など

*3:川名氏のような著名な研究者がこのような誤った説明を行っていることは極めて不可解なことであり、おそらく筆者のリーディングが間違っているか、もしくは川名氏の説明通りの直接功利主義者を自認する現代の功利主義者が存在しているのだろう。とはいえ、ブリンクのこの分類に意思決定の問題はまったく入り込んでこないこと、またこれらの(自明の前提とされているような)功利主義の分類においてもたしかに混乱が存在しているということには注意しておくべきである。

2018年2月24日

<朝>

起きたり起きなかったり。ごろごろする。

<昼>

同上。

<夕方>

やっと起きる。冷凍ポテトを揚げるなど。

<夜>

五反田で某と別れる。浅草線が停電?の影響で止まっていたようだ。五反田までいけるからどうでもいいが。陳麻飯。

<深夜>

帰宅、喫煙、麻雀など。自愛の思慮、自愛の思慮。

 

映画:『グレイテスト・ショーマン』(原題:The Greatest Showman)

 

鑑賞日:2018年2月23日

観賞場所:TOHOシネマズ日本橋

 

<あらすじ>

19世紀の興行師P.T.バーナムの(いちおう)伝記映画。しかし史実とは相当の乖離があるようだ。主人公バーナムは仕立て屋の息子で、過剰なまでの貧乏描写がある。箱入り娘のチャリティを見初め、(どういうわけか)ある程度穏健に彼女と結婚し、娘ふたりをもうける、というところまでがイントロ。

勤め先の倒産で路頭に迷ったバーナムはお得意のぺてんで銀行から融資を受け、ミュージアムを買い取るも客入りは芳しくない。そこで、娘のアドバイスもあり街中の「変わりもの」を見せ物にすることを思いつく。これが当たってバーナムは一躍金持ちに、チャリティの両親の実家近くに大邸宅を構えるまでになる。

批評家の悪評は気にもとめないバーナム、しかし上流の仲間入りへの夢はやまず、上流階級出身の「お上品な」劇作家カーライルとコンビを結成する。カーライルのコネでヴィクトリア女王に謁見するまでになったバーナム一団だが、ここでバーナムは欧州一のオペラ歌手と誉れ高いリンドに取り入ることに成功する。バーナムの手掛けたリンドの公演は世界中で賞賛を受け、彼の名声はさらに高まるも、家族やサーカス団とはすれ違いに、、、というストーリー。

<批評>

予告編を見た時から『SING』に多少のポリコレ要素を追加したものかと考えていたが、予想以上に『SING』そのもの。

テンポは相当によく、ミュージカル映画としてはうまくできているが、そのためにあまりにもストーリーが犠牲にされている印象。成功という光に目のくらんだバーナムが家族との小さな幸せの大切さに気付く、というのはベタながら必然的なシナリオなのだが、もうひとつ、批評家と気取り屋の上流たちにウケる『本物』の出し物ではなく、大衆を笑顔にするサーカスが自分のスタイルだ、というところに回帰しなければいけなかったのではないか。そもそも(おそらく史実においても)フリークスをおもちゃとしてしか見ていなかったバーナムを善人として描く気がなかったのかもしれないが、そうだとしてもラストで提示されたバーナムの言葉"The noblest art is that of making others happy."と整合的なものにならない。

マイノリティが利用される形にはなりながらも、そこに自己肯定を見出すというきわめて難解な状況を扱っているにも関わらず、この点に関するメッセージ性はみあたらない。トランプ時代に制作された映画としてはまったく残念な仕上がり。アメリカの批評家から評価がえられなかったのも納得。とはいえ、フリークショーの道徳性について特に思いを馳せたこともなく、他者のまなざしからの自由を漠然と求める現代大衆を喜ばせるには十二分の映画で、まさにバーナムがいうところのthe noblest artたる作品なのかもしれない。

脚本:D

音楽:A

バーナムの娘たちの可愛さ:B+

総合:B-